エロス断想

猫と美人を描いてゐます

嘘を買った話

先日、電動乳母車のことを書いたが、それで思ひ出したことをひとつ書く
N市に住んでゐた時のこと
ぼんやりと舗道を歩いてゐたら、前から電動車椅子に乗った人が近付いて来る
私は邪魔にならないやうに右によける
すると、すーっと私のよけた方に近づいてくる
今度は左によけると、また近付いて来る
あれ、困ったなと思ってよく見ると、彼のヒザの上にスケッチブックが載ってゐて何やら書いてある
「地下鉄に乗りたいのです。誰かと協力して階段を降ろしてください」
その男性は全身マヒで、ほんの少しだけ動く右手の指先で車椅子をコントロールしてゐた


ここで一つ告白せねばならない
私は前方から近付いて来た車椅子を認めながら、よく見ようとはせず、ただ避けようとしたといふことだ
これは差別意識の萌芽だ
気を付けねばならない


さて、私はアワテテ「はい、分かりました。ちょっと待って下さいね」と言って若者を探したのだが、なかなかゐない
弱ってゐると、少し離れたところから、カン高い声がする
「ああ、よかった。この子と運んであげて!」
見れば、中年の小母さんがヒョロッとした男の子を引っ張って来た
小母さんとこの子か・・・まぁ、いいか
しかし、私は電動車椅子をナメてゐた
私が脚の方を持ち、小母さんと男の子は頭の方を持って階段をそろそろと降りる
お、重い!!
全身マヒの男性はガリガリに痩せてゐるのだけれど、車椅子が異様に重かった
恐らくはバッテリーの重さであらう
バッテリーだけで、数十キロはあったのではないか
はっきり言って後ろの二人は手を添へてるだけだ
やっぱり男は鍛へてなきゃダメだよ
やうやく踊り場まで来ると、そこには身障者用のエレベーターがあった
中途半端な場所に作るなぁ・・・
「ここから先はお一人で大丈夫ですか?」と訊いたが、彼はしゃべれない
何度もうなづいてゐるやうすなので、私は去ることにした
小母さんと男の子は、とっくに消えてゐる
この人が帰る時には、この階段を昇らなければならないのか・・・


人は一人では生きられない
どうしても、誰かに迷惑をかけてしまふものだ
だから、「礼」といふものが必要なのだと思ふ
何かをもらった時には、心を込めて感謝の意を表す
挨拶された時には、きちんと挨拶を返す
それが「礼」の基本であると思ふ
心が籠もってゐなければ、それは虚礼だ
そして「無視」ほど傲慢で無礼な態度はない

   §

私って、そんなにいやらしく見えるのか知ら?
変質者みたいに見えるのか知ら?


わが街で一番大きなホテルで、或る下らない画家の展覧会が開かれたことがある
まるで興味が無かったのだが、母に頼まれて仕方なく行くことになった
入場者には、もれなくカレンダーが渡されるのだった
デタラメの名前と住所を記帳すると、ニヤケた若い男が近付いて来る
「いかがでせう? こちらの絵なんかリビングに飾っては・・・」
「うーん」
「こんな絵を玄関に飾ると、パッと明るくなりますよ」
「これはシルクスクリーン?」
「は? ええっと、これは何やろ・・・」
「僕は絵よりも写真の方が好きだな」
「はぁ、写真ですか・・・。どんな写真です?」
「ヌードとかね」
「(ニヤッとして)ああ、そんな感じですよね」
どんな感じやねん!?
そんなにいやらしさうに見えるのかな、私は
私の言ふヌード写真とは、マン・レイとかロバート・メイプルソープなんだけどな


ロバート・メイプルソープの回顧展に行ったことがある
素晴らしかった
しかし、その日の思ひ出は写真だけではない
展覧会場に向かふ途中で、ホームレスの老人にたかられたのだった
ちゃうど、今頃の季節だった
老人は、ロレツの回らない口調で、500円欲しい、と言った
聞けば、故郷に帰りたいのだと言ふ
その故郷は、はるかに離れてゐて、500円ぽっちで行けるところではない
私は笑ひながらお金を渡した
言はば、老人の他愛ない嘘を買ったのだ
すると老人は、1000円ないかなぁと言った
私は、たうとう吹き出してしまった


随分と前の話しだが、いまだに時折り思ひ出す
あの老人は、あの500円を何に使ったのか知ら
食べたか、飲んだか、賭けたか、何かを買ったかな
或いは、本当に故郷に帰ったのかも知れない
いづれにせよ、もう生きてはゐないだらう


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