エロス断想

猫と美人を描いてゐます

俳句が文学になるとき

ひねもす曇天、風あり。明日より本格的な梅雨入りか
明日は祖母の月命日なり。もう一ヶ月になるか、早いものだ。
窓にカマキリの幼虫が何十匹も張り付いてた。虫嫌ひなら卒倒しさうな状況。このままでは全滅してしまふので、はたき落して外に出す


仁平勝「俳句が文学になるとき」読了。特に感慨なし。もともと俳論はあまり読まない。或る哲学教授の言葉「入門書、解説書を読むより、原典を読め」・・・至言なり。
「死病得て爪うつくしき火桶かな 飯田蛇笏」あたかも小説の一場面を思はせるといふ理由で、この句は「小説的」であるといふことができる。小説なら、たとへば「死病を得たその人の爪は美しかった」と書かれるかもしれない。けれども、「爪」の美しさがすなはち「死」へ向かふ美しさであるといふメタファーをはらむほど、小説の言葉は密度を持つことができない。その密度において、蛇笏の俳句は小説を越えてゐると芥川には思はれた。


髪は女の命と言ふが・・・あの美しい髪をバッサリと切ってしまふほどの心境の変化とは?
どうして?



■三州生桑HP■
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