エロス断想

猫と美人を描いてゐます

或る若き詩人へのメール

こんばんは。
私は詩論なんて苦手なのですが、お尋ねの「詩人とは何か」といふ件について、僭越ながら私見を申し上げます。

「詩人」とは「詩を書く人」です。
では、その「詩」とは何か。
「詩」とは、単純に言へば「言葉の芸術」です。
「聴覚の芸術」が「音楽」であり、「視覚の芸術」が「絵画」である。
つまり、「芸術とは何か」が問題です。

思ふに、「芸術」とは、「思想」や「宗教」「科学」と同様、人間を新しい次元に導くものではないか。

仏陀やキリストは「宗教」で、
アリストテレス孔子は「思想」で、
ニュートンアインシュタインは「科学」で、

バッハやモーツァルトは「音楽」で、
シェイクスピアは「戯曲」で、
ゴーギャンピカソは「絵画」で、
フェリーニタルコフスキーは「映画」で、
芭蕉は「俳句」で、
実朝や与謝野晶子は「短歌」で、
ドストエフスキー漱石、谷崎は「小説」で、
ランボオや中也は「詩」で、人間を進歩前進させたのではないか。

もし、優れた「芸術」「思想」「宗教」「科学」などが無ければ、
社会は豊かにはなったかも知れないけれど、人間そのものは石器時代のままだったのではないでせうか。

詩人の書く詩は新鮮、かつユニークでなければならない。
ゆゑに、剽窃は芸術家にとって致命的なことなのです。
さうして、単なる表白は「詩」ではなく、「趣味」にすぎない。

新しい詩を書くといふことは、古典を破壊することではありません。
それは最も短絡的な方法で、既にやりつくされてゐます。
ダダやシュール・レアリズムは100年前の芸術運動です。
簡単で、目立つ手法なので、いまだに跡を絶ちませんがね。

例へば、前衛俳句なんてのがありますが、実験的な俳句は、既に江戸時代に出尽くしてゐます。
無季は勿論、記号を使ったり、短歌より長い俳句もあったのですよ。
その結果、残ったのが芭蕉や蕪村なのです。
俳人は、芭蕉を否定することなく、よく含味した上で、芭蕉を超えねばなりません。
「故きを温ね新しきを知る」とは、けだし名言です。

天才詩人は、一冊の詩集で世界を変へてしまひます。
私には、とてもそんなことは無理です。
ならば、詩を書く意味は無いのか・・・?
私は、さうは思ひません。

我々が真摯に詩を書き続け、詩友たちと互ひに切磋琢磨した結果、革新的な詩が生まれるのだと信じてゐます。
名声は、他の詩人が独占するかも知れません。
しかし、あなたも書いてゐたやうに、文学賞と詩に何の関係がありませうや。
よこしまな気持ちで詩を作るな、と論語にも書いてあります。

どうか、古今東西の詩文を、たくさん読んで下さい。
名作を批評できる詩眼を養ふのです。
さうして、駄作を恐れずに、たくさん詩を書いて下さい。
誰も未だ書いたことの無い言葉の可能性を模索し続ける・・・、それが「詩人」の宿命なのです。

さて、長々と書いた割には、私の最近の恋愛詩は、この詩論には当てはまらないやうですね。
恋は、冷静な詩人をも狂はせるのです。
恋愛恐るべし。
そのうち、失恋の詩を書き始めるでせうから、楽しみにしてゐて下さい。

それでは、また。
くれぐれも健康に留意されたし。